社会的に望ましい状態は資本主義と民主主義が共存する状態であるが、現実には資本主義が肥大化してしまい民主主義を圧迫している、という主張の本です。
要約すると…
まず、独占企業が社会的存在となって経済発展に貢献してゆく「黄金時代のような物」がある。
ここでは、企業はカルテルや談合によって競争を逃れながら安定的な利益を得て、その一部を労働者にも還元するために、社会全体が円滑に回る。
そこで、技術革新、競争促進によって、従来の独占企業は談合・カルテルを禁止され、また参入障壁が小さくなる。
すると、他企業が市場に自由に参入できるようになり、市場競争が激化する。
また、投資が活発化し、投資家の要望に応えるために各企業は利潤最大化をせざるを得なくなる。
これにより、第一の問題として、低賃金により高収益を稼ぐ企業が増えてしまう。
また、利潤を得るためには消費者の要望に応える必要があるため、企業は頑張って魅力的な商品を作り出す。
すると、第二の問題として、ジャンクフードを大量に売り出したり、性・暴力の描写を行う企業が増えてしまった。
このような問題は政治(=民主主義プロセス)によって規制されるべきだが、企業はロビー活動を行って政治の世界をゆがめ、自分たちの競争優位が確保できるように政治を誘導してしまった。
これによって、いつのまにか投資家・消費者としての私たちの力が増し、市民としての我々の力が急速に弱まっていった。
これを「超資本主義」と呼ぶ。
CSR活動というのも、社会問題を解決するべく政治が行動し始めた時に、企業自身が「自分たちで解決します」というアピールをして政治を誘導する手段である。
このように、超資本主義においては、企業はルールに則った範囲内でいかなる手段をも利用して(スポーツなどと同じように)利潤を追求するのである。
といった感じかな。
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実は、大学1年の時に「企業はなぜCSRを行うのか」という研究を個人的にやった事があったり、
資本主義と民主主義の関連について考えてたり、とまぁ偶然が重なったので、非常に自分の関心と合致してて良かったです。
一般的に経済学では、「市場競争は資源の最適化を行い、政治はそれの再分配機能を果たす」といった説明で終始していますが、現実とはかなり違うなと感じていました。
著者はこの点に関する洞察が鋭く、資本主義が民主主義を支配している、という結論を得ています。
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要約には書きませんでしたが、ライシュは最終的に
「企業は人ではない(中略)企業は法的擬制であり、契約書の束以外の何者でもない。」(p.297)
と考え、故に
「間違った人格化の結果、性格には人間に帰属しているはずの義務と権利が企業にも与えられている。そしてこのことが資本主義と民主主義の境界をあいまいにし、悪い公共政策につながっている。」(p.298)
と主張し、最終的に企業に人格を認めるべきでないとしています。
なかなか大胆な発想ですね。
ところで、法人格というのは、19世紀ドイツにて論争が起こったんです。
大きく分けて3つの主張があったのですが、
1つ目が「法人擬制説」で、これは法律上の目的のため(財産権を認めるなど)に擬制された主体であるという解釈。
2つ目が「法人否認説」で、これは法人は仮想された主体にすぎず、現実には財産管理団体と受益者の間に法的な関係が存在するだけ、という解釈。
3つ目が「法人実在説」で、企業は法人格を与えられるに適し、またそれを必要とする社会的実態であるという解釈。
確か、論争の明確な決着はついていなかった気がするのですが…。
ライシュの立場は2の「法人否認説」ですね。
3の立場に立てばCSRは真の「社会的責任」として容認できるし。
ちなみに僕は1です。
「法人」は財産権などを与えられるという理由のみで「人」であり、それ以外では「人でない」とした方が分かりやすいから。
そして、企業は「個人的倫理観を持った投資家の資金の集まり」であると考えています。
つまり、消費と同じように、投資にもhappy(効用)がある。
個人単位では、多少の配当を我慢してでも、市民としての自分の欲求を達成した方が嬉しいんだと思う。
だって、「ポルノ作ってる会社に投資してる」とか「労働者搾取してる会社に投資してる」って嫌だもん。
そして、消費者としての僕達も、「この商品は労働者を搾取して作られた」と考えれば少し高くても我慢するよね。
そういう人たちが集まって社会を作れば、超資本主義の問題は解決できると思うんだけどな。
とりあえず、勝間和代さんが言うように、一度読んでおくべき本の一つです。
政治・経済全般に関心ある人は是非読んでみてください。